昭和42年07月16日 朝の御理解



 お道で御比礼と云う事を申します。御比礼というのは、比は「比類」の比ですね。礼はお礼を申し上げますの礼である、比礼ということは、神の威、神の勢い、そういう風に仰っておられます。神様のご意向、御威光と申しますね、それは現われる事を御比礼という、あちらのお広前は、本当にえらい御比礼がたっとるげな、という時には、あちらのお広前は大変繁盛しよるという時に、御比礼という言葉を使います。
 ここで皆さんが、よくお参りをされた折に頂かれる、おいさみと言う事を頂かれますね。是はもう愈々御比礼の、神様の御比礼威というか、お徳と言う物を、やむにやまれん思いで現されておるのが、おいさみです。御神殿がなりましたり致しますでしょう、神様の御比礼、申しますならば寂れて行く教会、どんなに大きかっても、段々教勢が衰えて行きよる様な教会では、絶対に無い事で御座います。
 そういう意味合いで皆さんは合楽のお広前の御比礼に、日々浴しておられる訳で御座いますね、身が縮む様な思いが致しますね、あのおいさみを頂きますと、ほんとに否応なしに清まらなければおられない、清めて下さる様な思いが致しますですね。今日は九州中のお道の信奉者が集まって、小倉で、小倉じゃありません熊本、熊本で大会が催されます、ここからもここを八時出発になっておりますから。
 自動車が八台に分乗しましてから皆さんが、あちらにおかげ頂かれます、是なんかも、是は教団の、いや九州の道の御比礼の現れであります。九州中の者が熊本に集まって、南は鹿児島、北は門司小倉あたりからまでですね、全教の言うならば主だった信者と申しましょうか。信者が一堂に集まって会合をするというのですから、神様の威をいよいよ現す事になるので御座います。
 ところがその空の威というのがありますよね、空威張りと申します、又は虎の威を借った狐、と云う事を申しますね、イソップ物語ですか、御座いますでしょうね、虎の皮を被った狐なのである、そう言う様なものでは本当の力ではないですね。私共そう言う様な今日の大会が事でない事を祈り、又それを恐れるのです、ここでもそうです、ま例えば私が偉くはないんだけども、親先生が偉い事にいたしましょうか。
 親先生が偉いのに、信者さんの一人一人が偉いごと思うとる。私は合楽の信者で御座いと言う訳なんです。是はもう大きな教会には、必ずそれがあります。もうあちらの教会の先生は生神様の様な方だ。もうそれで総代達が生神様のごとなっとる、自分が偉いとでもなんでもない、そこの先生が偉いのである。こう言う物は、いわゆる虎の威を借った狐の様なものですから、おかしなものだとこう思います。
 同じ御比礼というてもですいかにも形には、もほんとにそこの御比礼。今日は九州中の発展、比礼というものが大会に現われるというものでなからなければなりません。けれどもです、もし万一です熊本へ熊本へとんなら教団人というか、お道の教団人が集まりますが。帰りがけには阿蘇見物、帰りがけには別府で一泊と言った様な事がですね。大体目的で行くというものがもしあるとするなら是は一寸おかしいですね。
 第一募集がここはここで自家用車で参りますから、もう行ったら大会が終ったらこちらへ帰って来れる訳ですけども、他所さんでは皆んなそういう計画の元に集まるんです、いわゆるお道の事だけで集まらんのです。例えて云うならば、それでま、阿蘇に行ったことないものは阿蘇に行く、お金も勿論何千円というお金もいります、だから、さあそれがほんとに神様の御用にたたせて貰う、喜んで頂けると云う事には、百円の金も惜しむ人がです、さあ帰りは別府だ阿蘇だと云う事にです、なったらですね。
 何千円の金を平気で出して、兎に角ですね。ある大きな教会なんかは二、三日前秋永先生が小倉に行っていよりましたが。五百名からある所がありますそうです。やあ、あっちの教会、御本部参拝なんかは、わぁずかしかなかった、あっちゃあげな信者がおるとですばいなと云う事ですね、沢山申し込んだ所も御座います、いやそれとても金光大神の御比礼に間違い御座いません。金光教大会という名を借って行くので御座いますから。御比礼に違いは御座いませんけれども。
 それは何とはなしに空威張り的な、いわば虎の威を借った狐の様な威を感じますね。私共が今日こちらから三十四、五名乗りますから三十四、五名の方がおかげを頂く訳で御座いますが、そこの所を良く心に入れてほんとに神様の御比礼、その御比礼を穢す様な事があっちゃならん。又は合楽の御比礼を穢すようなことがあっちゃならん。ああ、あれが合楽の信者じゃろ、と例えば云われる様な事があってもなりませんね。
 こういう時には特に御本部参拝とか、こう言う様な大会とかいって皆んな集まる時には、必ず皆んながはぁっとにかくころっとしとりますよ、信心の出来ておる信者と、でない信者と。こりゃもう御本部参拝の時が一番分かりますよ。なんとはなしに一糸乱れずですね、きちっとでけて、普通の信心が出けておるとこの教会の信者は。けれどもですね、ほんとに御本部参拝にでも、もの御産的な場合、信者のいる所はです。
 もうそれこそ、もうお参りに行きよるとやら、遊びに行きよるとやら分からん様な状態が、その中に現われておるです。私共信心内容頂いて行くと同時に、矢張りそういう時には、考えもしなければならんが、日頃の信心がほんとに、そういう時に出て来る様なおかげであってこそ、ほんとの御比礼だと思う。先日飯塚の大久保先生が見えてから、ここの今度新たに出ける組織の事を、塗板に書いてあるのをご覧になって。
 素晴らしいって私ゃ今まで御造営建設委員という、ひとつの組織のあったのを解体して、それを一辺解散して新たに又、こういう組織がでけると言う事は。やっぱり合楽のお広前の御比礼だと、是非この写しをひとつ送ってくれと。まあ委員長にいうて行かれたと、云う事で御座いますけれども。それとても矢張り合楽の御比礼なんです。んならそういう御比礼がです、見せる為にあすけ書いておったのでもなからなければ、形だけが出けておるのじゃなくて、実際出けるか出けんか、まあだそれ前から組織のその働きというものが、実際にあっておると言う事をですね。
 例えば、企画の委員会が、もうこの夏の大祭の為の委員会が持たれました。すぐその翌日が総代会でしたから、総代会がそれを検討致しました。それをこの十三日会で皆んなが皆んなでまとめられました。もう組織があってこそ それが出けるのでございます。いちいち先生がさあ八月は大祭じゃけん、皆さんどげな風にするの、ちいうてから一人一人相談する事も、なあもいらん。いうならば、ほけんごとしとっても大祭の準備が段々出けていっておると言う事。是はここのお広前の御比礼なんですね。
 そういうひとつの、形の上に現われて来るところの、御比礼がですどう言うところから、そういう根本のものがあるかというとです。私は先ずあげたいのは総代会だと思うですね。皆さんがご承知の様に朝必ず五、六名の総代さん方がここへ出られてから。いわば合楽全体の御比礼の事に付いて、万事のおかげを蒙ります様にと云うお届けが御座います。是は口で云うだけじゃ御座いません、総代さん方がそれぞれに真心を込めての願いをもって、それをなさいます。
 夜には朝出てこられない総代さん方が出て参りましてから、矢張り今日一日のおかげを頂きまして、いわゆる合楽お広前全体の事の、お礼のお届けが御座います。そういう誰も知らない、いわゆる神様を総代さん方というか、云うなら私だけしか知らない様な、そういう眼に見えない働きというものがあっておるからなんです。次にあげたいのは、ここの報酬委員会の方達の事で御座います。
 是は一週間に一日では、御座いますけれどもね。そういう思いを、ひとつにした方達が集まってから、新たな特別の、御祈念をなさいます。そういう目に見えない、祈りの力というもの、云うならば、根が栄えずして、枝葉の栄えるためしが無い、合楽のお広前に、こうしたひとつの枝葉が、栄えておると云う事は、それにはそれなりの、根がちゃんとしてあるからだ。是なんかは、目に見えない御比礼と同時に、目に見えない、ひとつの御比礼と言う物がですね。
 その向こうにまいっちょ総代さん達をそう動かさなければやまん、特別の報酬でもさして貰わなければおかんという、そういう形を動かすその元の働きと云うものが、ここにはあっておるそれを例えて一番端的にいうならば、ここで皆さんが頂かれるおいさみなのである。神様のやむにやまれんような思い勢いというものがです、そういう風に現われて目に見えない御比礼から目に見える御比礼とおかげを蒙っておる。
 そういう私は、御比礼であって本当の事では無かろうか、そう言う様な御比礼の中にあってです、合楽の事を悪く云う人達もある。そういう場合にです、教祖はですね、神の事をとやこう言う事も神の比礼ぞ、と仰っとられます。人の口には戸は立てられない。そのひとつの例がですね、合楽では昨日もですね、もと久富組の運転手さんかなんかしとられました、何とかいったですな。
 昨日参った人。浮羽郡のなんとかつっとる岩井さんか。あんた方の元方だったんですね。あっちが目のお母さん連れてから参って来たんです。それがですね底ひでですね、もう医者も手遅れで、手術する事も出来ない訳なんです。それでもう目が見えなくなる寸前で、もちろんここ歩くでも手引かなければでけない、というお母さんを連れて来ましてですまあだ椛目時代の事を正義さんから、何時も聞きよったですよね。
 とにかく盲くらが目が開いとる、ちんばが立ったりち言うごたる、そりゃほんとにすさまじい神様の働きと言う物があってるんだと。それが聞きよった時には、もうほんなこつじゃろか。そしたらなんのあんた椛目はサクラ使うとるげなばい、ちいうていうた人があったちいう訳なんです。それがほんとにサクラ使うとる事御座いましたですもん。今でもそうですけれどもですよ。
 例えばほんとにあの例えばお届け来ると目でおかげを頂いとる人が参って来るんですよ、ほら今話しよる人はこの人ですよ、といって実際その人から話を聞くんですだから。この人はまるきりサクラに使われとる、様にあったんですあの椛目の、愈々道が開けれる初めの頃の、一つの勢いと言う物が御比礼と言う物が、だから見方によっちゃ成程そういう評判が立つ位でした。そう言う様な事じゃないでしょうか。
 神の事を、とやこう云うのも、神の比礼じゃと。ですからそういうのは例え悪口であっても神様の御比礼なんです。ある人がいうたてはあ、とてもお月次祭たんびに、もうそりゃちょいとたまがる事お供えがある。もう是だけは日本一じゃろちいうて、今の合楽、当時は椛目でしたね。椛目のお供えだけあれば、ほんなこつならあれが日本一じゃち、いわれる位にあった。いや今よりはまだ少なかったですけどね。実際はと言われる位に、おかげ頂いとったです。
 ところが中にはです、ありゃ前、お供えをこうやってし御座るとやろ。というふうに云う人もあったんです。いわゆるさくら使っとる、お供えちいう訳です。もうそりゃ今度の、実際は御普請の時なんかは、ずいぶんお酒が要りましたよ。けれども、本当に一本だって買うた事は御座いませんでした。先生もそれが溜って、どうしましょうか。どうしましょうかち、そん時は、酒蔵建てなさいち私がいう位に、実際酒が沢山集まっていたんですね、それが実際ですけど。
 こちらはなんともないんですけども、しかし見る者が見聞く者が聞く分からん者がするとそう言う風に。はああんたあすこはあんたお供えでんなんでん同じもんばぁかり、その前ん度のつをしござるとじゃろと言う事なんかも、こりゃ神の比礼なんですね。実際ここにおって御用頂いとるもんでなければ分からんね。信者の中にすぐそれを考えそういう風に思うとる人があるかも分からん位あるくらいで御座いますけれども。
 それとてもそう言う様な意味の事は神の比礼ね。ですからいうなら、そういう比礼にです、皆さんが浴せるお月次祭ならお月次祭に、ここに一杯集まって有難い勿体ないというお話を頂かして貰ながら、お祭りを拝まして貰ながら、なんとはなしに有難いという、ひとつのるつぼになってしまう。その中に入って来るですから、おかげ頂かん筈がないです、不思議なんですよ。
 もう身体がきつして、だるしてたまらんという時にです、信心の喜び、ふっとここに入って来るとですね、もう体中の血がですね、変わってしまう様にあるんですよ。どんなに眠かってもですね、ちょっとなんか有難い物が触れますと、体中の血が新しく変わってしまう様に、きっと目が覚めるんですよ。はあ是じゃ病気が良くなる筈だと、だからね。昨日お参りして見えた親子連れのその、目が悪いと言うその人もです
 。私がここで目でおかげを頂かれた話を致します。だからあっちはすぐ妹川が近所ですから、妹川であの空気銃の玉が目に入って、おかげを受けた人がある事実の話をさして頂いたんですけれども。そげなこつがあるじゃろかち、いうたごたる風に聞きよんなさいますもん。初めはそうです皆んなが、けどもそういうですね、そういう例えば、ほんとにサクラ使うとるとじゃろか、すらごっちゃなかろうかと、思う様な皆さん御比礼の中に、そういう御比礼に浴しておられる。
 と言う事を皆さんは、だから皆さんに丁度そのなんと申しますかね。四月八日のお釈迦さんに、甘いお茶を頭からかぶせる様なもの、ね。私がこうやって皆さんにお付き合いさせて頂いておると言う事はね。是はいうなら甘茶の様なもんですよそれを信仰的な言葉で云うと、甘露の法雨とこう申します。甘露、美味しか美味しいもん飲んだ時には、あ甘露と申しますでしょうが。
 甘い露と書いてある、ほうは法と書いてあるうは雨と書いてある。さんざんとしてこうやって降り注ぐ様にしてですね。皆さんが甘露の報恩を頭から浴びておられる様なもんです。何故って是は私がね、工夫してお話をしておるのじゃないからですよ。ね、神様からお伝えを頂いた事を神様がヒントを頂いた事を、いや私がおかげを実際受けた事を、皆さんに聞いて頂いとるのですからここでの御理解は甘露の法雨です。
 よく私は子供の時に、あの山本のお観音さまに連れられて、参った事がありますが、なんか色んなお祭り、お祭りというかあんなのがある時、特に一人一人にですね。有難い観音教のなんかバラバラバラバラちいうてから頭からかけて頂く事が、かけて貰うね、あれはね、もうそれこそ有難い有難い経文をです、頭からいわゆる甘露の報恩を頭からそそがれる様な物なんです。
 椛目では、それこそ観音教に匹敵する様なんですね。お話を皆さんは朝晩こうやって頭からかけられておる様なもんです。おかげ頂かんはずがないです、だからね、いわゆる皆さんはそう言うひとつの御比礼に浴しておられる訳なんですね、ですから私は有難いんだと云う事をお互い分からして貰わにゃいけません。今日只今申します様に、熊本でそういう大会が御座います。
 同時にここからも只今申しますように八台の車に分乗した方達が、金光教のシ―ルを貼った八ッ波の御紋章の旗を刷った八台の車が、ここから出て行く訳です。それだけでも矢張り、お道の信心の御比礼でありますけれどもです。んならお参りするもんだけじゃなくて。後に残る者も矢張り祈りが必要なんですね。この大会の盛会を祈らせて貰うと云う事が、信奉者としての当たり前の事なんです。
 そこまでですね、心が行き届く様にならにゃいかんと思うです。今日はね、願わくば自分も行きたいんだけれども、それがでけないから、どうぞ今日の熊本の大会が盛会に、ほんとに神様の御比礼としての、現れが出来ます様に。又、ここからお参りをしておる方達の上にも、とちゅう無事にどうぞ、ほんとにその御比礼をよくして来られる様に、と言う様なですね。願いの持たれる位な信者にならにゃいけませんよ、我がこつばぁかり願っとる信者はつまらん。
 昨日は丁度九時から、きっちり九時から、ここの学生会新聞の願い、あの願いの新聞を持ってそれであの、いうなら編集長ですかね、いばっとります、鳥栖の上野勝美さんというですか、自動車で昨日、御本部参拝をここから致しました。親もここに見送りしとる。ここに参り合わしとる皆さんも、その門出祝して、お祝いの門出の拍手を受けながら、ここから出発したんです。
 考えて見ますと大変な事なんですが、もうとてもとても若い時じゃなかと出来る事じゃない修業で御座いますよね、パンツ一枚にそれこそ身を固めるじゃなくて毛糸の軽装ですね。それでもやっぱり持っていかにゃなりません是を後に付けましてもう、それこそ意気盛んな風で参りましたがです。私は思いました、もうそげん迄せんでよかじゃんのと言うけれどもね、それがしかし合楽の御比礼なのですから。
 金光様に時下にお届けをさせて頂いて、合楽全体の事をお願い致します。特に新聞願いの事をお道の上に、教団の上にもお役に立つ様な新聞に。だんだんおかげを頂いて参りますように。という祈り願いを持って出発致しました。ね、五日間掛ります、自転車で参りましたから一生懸命踏んでいる。途中どう言う様な事に出会うか分かりません、野で寝たり、山で寝たりもするでしょう。
 そういうですね、まあだ二十そこそこの青年がですね、そういう様なものを誰か参らんのというのではなくて、なんかやむにやまれん、しなければおれないのは、ここにはなんとはなしの事から盛り上がっておる、ひとつの御比礼なのです。そう言うひとつの御比礼に皆さんが浴しておると云う事。それは只今申しました様に、甘露の法雨をこうやって浴びておる、それも御比礼だ。いわゆる御比礼に浴しておるのだ。
 ですからおかげ頂かなければ、相済まん神様にも係らず、おかげを受けられんというのは性根が悪いからだ。お互いの考え方が間違うとるから、甘露の法雨、甘露の報恩と頂けんから、御比礼を御比礼と浴していっきらんから、おかげにならんのじゃ、という事も云えると私は思いますね。今日の熊本大会の盛会を祈らせて頂きよりましたら、只今皆さんに聞いて貰った様な事を、お知らせを受けたんです。
   どうぞ。